狩野 永徳。 BushoCard/3708狩野永徳

永徳 狩野

👐 本紙料絹に多数の折れや亀裂が発生し、絵の具の剥離・剥落が見られたことから、2008年9月から翌年10月にかけて解体修理が行われ、幾つかの発見があった。 実物を鑑賞する際は是非獅子と睨み合ってみて欲しいと思います。 岩場を歩く雌雄の獅子の堂々たる姿を、力強い筆づかいで描いた力作。

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👣 上杉家の古記録に残された「洛中洛外図」とともに信長より贈られた「源氏物語図」との関係はわかっていないようです。 小栗宗湛 そうたん の跡を継いで,室町幕府のとなったがその開祖。 桃山時代の画家。

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😅 生涯 [ ] 12年()、松栄の長男としてで 生まれる。 独自の様式を確立 当時主流であった狩野派の様式を学んでいた長谷川等伯は、狩野派の様式のみならず中国絵画にも触れるようになり、牧谿の『観音猿鶴図』や真珠庵の曾我蛇足の障壁画などを目にする機会があったとされています。

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✇ その後、祥雲寺(現在の智積院)の障壁画が秀吉に気に入られたことを契機に200石の知行を得て、長谷川派を狩野派と同等の地位にまで押し上げます。

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💔 永徳の大迫力の巨木表現は、織田信長や豊臣秀吉の上昇志向の気風に合致し喜ばせていたといいます。 強い筆致で大規模なモティーフを劇的に用いる一方、空間が微妙に描き込まれ、灰色の墨汁と白い紙、そして淡い金の霧との間に繊細な対照を作り上げています。 代表作としては、大徳寺に残る巨大な『涅槃図』(縦約6m)がある。

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👋 織田信長と豊臣秀吉、徳川家康が庇護した狩野派とその追随者たちの作品は、次第に巨大になり威信を増していきます。 探幽にいたっては永徳のように新しい時代を作り上げていった人物とまで言われています。

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⚓ 明治初期には,が出て,近代日本画の指南的存在として意欲ある活躍をみせた。 時間に追われる日々の中で初期の頃に用いていた細筆を用いる暇がなくなり、大画制作へとなり、筆法が粗く慌ただしい奇々怪々な趣に変わってしまったとも言われています。

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🖖 城や御所などの大規模な建築の障壁画制作を一手に請け負うことができた理由は,すでに元信の代に仏画から肖像画,絵巻,画まで,あらゆる画法を修得して幅広い注文に応じられる工房制作の方式が整えられ,これを継承した工房の拡充に永徳が成功したことがあげられる。

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🙏 5cm、四曲一双の紙本金地着色。 右隻の龍の下に描かれた鋭く伸びる木の枝の動きや左隻の龍が巻き起こす風が強風であることを物語る熊笹の動き、その強風に動じない雄虎の身を低く威嚇する姿がこの絵にさらなる迫力を与えています。